【ハレとケ】高級な食器や道具を日常で使うべきか?

グルメ・嗜好品
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日本には「ハレ」と「ケ」という文化があります。これは民族学者・柳田國男によって見出された概念で、のちに文化勲章を受賞した彼の研究によって広く知られるようになりました。簡単に言えば「ハレ」は非日常、「ケ」は日常を指します。特別な日を祝う「晴れ着」などの言葉にその名残があり、私たちの暮らしの中に今も息づいています。

かつては食器にさえ「ハレ」と「ケ」の区別が存在しました。正月や婚礼といった祝い事には、普段使いでは決して出さない絢爛豪華な漆塗りの器や御重箱が食卓を飾り、日常では木の器や陶器で十分とされていました。現代ではその境界が薄れ、普段からいい食器を使う家庭もあれば、逆に高級な器を買っても戸棚の奥で眠らせてしまう家庭もあります。


高級品を「使わない」という選択

では、高級な食器や道具を「日常で使うべきか?」という問いに移りましょう。ここで意見は大きく分かれます。

例えば高級ブランドのティーカップを買ったのに、一度も使わずにキャビネットに飾るだけという人がいます。中には「地震で割れるのが嫌だから」と言って箱に入れたまま数十年しまい込み、結局タンスの肥やしになってしまう人もいるのです。

実際にヤフーオークションやフリマアプリを覗くと、1970年代に購入されたままのティーカップやグラスが「新品未使用」として売りに出されているのを目にします。ラベルやシールがついたままの姿は業者のデッドストックのようで、なんとも言えない寂しさを感じます。買った本人が「特別な日のために」と大事にしまい込み、結局一度も日の目を見ないまま数十年が経過してしまったのです。

読者の皆さんはどうでしょうか。高級品を買った時、すぐに開封して日常的に使いますか?それとも「これは特別な日のため」と決めて、棚や箱にしまっておきますか?これは食器に限らず、服、時計、車、ジュエリーなどあらゆる分野で同じことが言えるでしょう。


「毎日がハレの日」という生き方

私の知人は、「プレミアムエブリデイです」と豪語しています。つまり毎日が「ハレの日」なのです。

侘び寂びの精神はどこへやら、彼女にとって高級レストランは「小腹が空いたら行く場所」にすぎません。ミシュランの星付きレストランであろうと、彼女にとっては「今日はなんとなくここに行こうかな」と思いついた先に過ぎないのです。一般的な感覚からすれば驚くべき贅沢ですが、同時に人生を何倍も楽しんでいるとも言えるでしょう。

人生は思っている以上に短いものです。金銭的に自由が得られるのは20歳を過ぎてからですが、実際に体力があり旅行や食事を存分に楽しめる期間はせいぜい60歳から70歳まで。早い人では30代から脂っこい料理がきつくなったり、長距離移動が苦痛になったりします。つまり「全力で楽しめる時間」はおよそ40年しかないのです。そう考えると、り◯こさんのように毎日をハレの日にしてしまう生き方も、確かに理にかなっているのかもしれません。


ハレの日が「当たり前」になる弊害

一方で、毎日のように贅沢を重ねると、それが「ケ(日常)」になってしまいます。もう一人の知人は、20代で一か月のうち26日間を仕事に費やし、休日は月4日程度しかなく、ほとんど寝て過ごしていると言います。こちらは仕事人として立派ですが、人生を楽しめているかといえば疑問です。

逆に、毎日のように高級レストランに通う人もいます。ところがそうなると誕生日や記念日という「特別な日」に、どこへ行くべきか分からなくなってしまう。実際、知人は「だいたい行き尽くしてしまった」と嘆いていました。高級が日常になった結果、感動やときめきを失ってしまうのです。これもまた一種の「贅沢疲れ」と言えるでしょう。


高級品は「普段使い」すべきか?

では高級品は普段から使うべきでしょうか。私は「使った方がいい」と考えています。なぜなら、普段から使い慣れていないと「本当に良いもの」の価値を判断できないからです。

例えば高級ワイン。普段からワインを飲み慣れていない人が、ある日突然グラン・ヴァンを開けても「これは美味しいのか?どうなのか?」と首をかしげるだけで終わってしまいます。食器も同じです。普段から良いカトラリーを使っていれば、ホテルやレストランで出てきたときに「これは本当に上質だ」と分かる。ジュエリーや時計も同じで、普段から身につけてこそ、石や金属の質感や加工の違いが分かるのです。

私は食器マニアで、日常的にクリストフルの銀のカトラリーを使っています。食事のたびに手にするたび、その重厚さと輝きにうっとりします。ただしその結果、ホテルニューオータニのトゥールダルジャンに行った時も「自宅と同じだ」と感じてしまいました。つまり「感動が減る」という副作用もあるのです。


バランスを取るということ

ここで浮かび上がるのは「日常で高級品を使えば感動は薄れる。しかし使わなければ価値を判断できない」というジレンマです。これはまさに諸刃の剣。

ではどうすべきか。私は「松竹梅」でいうところの「竹」を選ぶのが庶民にとって最良だと思います。普段は少し良いもの(竹)を使い、月に1〜数回は「松」を体験する。そのくらいがもっともバランスが良いのではないでしょうか。

例えば食器であれば普段は良質な陶器やシルバーのカトラリーを使いつつ、記念日には金彩の漆器やグラスを出す。食事であれば日常は良質なレストランや家庭料理で十分、月に数度だけ特別な店で贅沢をする。衣服なら普段は高品質な既製品、時にはオーダーメイドを。そうした中庸の生活こそが「ハレ」と「ケ」を両立させ、人生に張りを与えてくれるのだと思います。


まとめ

「ハレ」と「ケ」は日本文化の根幹にある概念です。日常と非日常をどう切り分け、どのように楽しむかは人それぞれです。毎日を「ハレ」にするのも素晴らしい。けれども「ケ」の中に「ハレ」を仕込むからこそ、人生はメリハリを持ち、感動を生みます。

高級品を普段から使うか、特別な日にだけ使うか。その答えは一つではありません。しかし一つ言えるのは、私たちの人生は有限だということ。日常の中に少しずつ「ハレ」を混ぜ込み、時には思い切り「松」を選んでみる。その繰り返しが、最も豊かな人生を形作っていくのではないでしょうか。

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