ついに読み切ったバルザック『ゴリオ爺さん』。
控えめに言っても、あまり面白そうとは思えないタイトルで、昨年「ヴォケール館」まで読んだところ、あまりの“汚い描写”に怖気づいてしまい放置していました。しかしようやく読了。
『大人になれる本』の「フランス文学、はじめの3冊」でも紹介されていますが、まずはアマゾンの紹介文を引用します。
「華やかなパリ社交界に暮す二人の娘に全財産を注ぎこみ屋根裏部屋で窮死するゴリオ爺さん。娘ゆえの自己犠牲に破滅する父親の悲劇」
確かに間違ってはいないのですが、肝心の核心部分が抜けています。
この小説の本質は、一言で言えば “執着心”。
あらゆる登場人物の執念や欲望がドロドロと混ざり合い、スープのように煮詰まった世界。しかもその描写が精神的にも衛生的にもとにかく汚い。
例えば冒頭の描写。
ここの料理女はこの勝手口から下宿人の出した汚物を捨てる。疫病の元になるかもしれないのに、汚物槽を洗った大量の排水もろともそれを通りに流してしまうのだ。〜中略〜 この玄関サロンには、名状しがたい「下宿臭」としか呼びようのない異様な匂いがした。むっとするような、かび臭い、饐えた匂いだ。〜〜嗅ぐと寒気がし鼻水が出る。衣類にも染み付く、食後の食堂のような匂いがする。
〜〜カタルを誘発しそうな悪臭だ。加えて年寄りから若者まで、下宿人全員が独特の体臭を放つ。
手垢が図形のように幾重にもこびりついた食器棚。文明の絞りかすのような人間たち。お払い箱になった家具だけがしぶとく残っている下宿――。
とにかく 汚いし臭い。
“しみったれ”という言葉がこれほど似合う小説もありません。
しかしこの先には物語として面白い展開がたくさんある。
ただ、現代の清潔な小説に慣れていると、19世紀パリ下町の不衛生さが文章だけで精神に刺さる。
そして物理的な汚さだけでなく、嫉妬や執念、金への渇望といった 精神的な汚さ が重層的に描かれているのです。
また、“金”というテーマが異様なまでに強調されています。
物語を読み進めると、当時の社交界では、支度金(持参金)があれば社会的地位は買える世界だったことが分かります。
「歌われます?」
彼女はピアノに向かいながら大声で訊き、勢いよく指を動かし、低いドから高いファまで鳴らした。
「いいえ、歌いません」
「それは残念。出世の近道をひとつ逃しましたね……」
主人公のひとり、法学生ウージェーヌ・ド・ラスティニャックが社交界へ飛び込み、地位と金を得ようと奮闘するその過程には、一つ一つの言葉に重みがあります。
貴族たちは旦那公認で“若い愛人候補(燕)”を囲い、そこを足掛かりに出世を狙う。
現代日本と『ゴリオ爺さん』では貧困の種類こそ違うものの、「家族」「恋人」「愛人」「金」という構造は驚くほど共通していて、読んでいて妙なリアリティと恐怖を感じます。
「ひとかけらの愛情を持たなかったその男もひどいけれど、自分をそっくり曝けだしてしまった愛情のほうが罪が重いのです。
その父親はすべてを与えました。二十年かけて自分の内臓を、愛を与え、たった一日で財産全てを与えました。
すっかり絞りかすになったそのレモンを、娘たちは道端に捨てたというわけです。」
「社交界は腐っています」
「腐っているですって! とんでもない、社交界はまさにそういうところなのです。」
愛情と金の終末的な歪みだけでなく、 説得や洗脳の描写も鋭く、読者の思考を揺さぶる力がある のがこの小説の恐ろしいところ。
例えばヴォートランがラスティニャックを説得するシーン。
「厨房みたいなものなんだ、人生ってのは。
お綺麗なものではなく、饐えた匂いもする。
料理をしようと思えば、どうしても手を汚さなければならない。
ただし後始末だけはきちんとすること。それが我々の時代のモラルの全てだ。」
「原理なんてない。あるのは事態だけだ。法則なんてない。あるのは状況だけだ。
優れた人間ってのは事態と状況に適応する。そのために操作するんだ。」
エンタメとして読んでいるはずなのに、読者にまで焦燥感を与えるほど巧み。
ずる賢いビジネスマンなら、この小説に登場する“人の動かし方”を真似したくなるかもしれません。
物語としては非常に読みやすく、漫画やラノベのようにスラスラ進みます。
オペラの歌詞、詩人、作品、ギリシャ神話なども頻繁に出てくるので、軽く調べながら読むと理解が深まります。
伏線の回収も見事で、読み終わってすぐ再読したくなる構造。
今回初めてバルザックを読みましたが、一癖も二癖もありながら、ここまで面白いとは思いませんでした。
汚い描写だらけですが、人生がつまらない時や刺激が欲しい時は、ドーパミンがドバドバ出る“悪書”としておすすめです。
ただし内容が濃く、大人向けなので、成人前の少年少女には少し早いかもしれません…。



