アンリ・ジャイエを飲んで人生が変わったのか?

グルメ・嗜好品
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最近、すっかりお酒を飲まなくなって、気づけばもう4ヶ月ほど経ちました。
もちろん、昔からの友人が東京に来たときなど、大切なタイミングではワインを楽しむこともありますが、今年はアルコール全般に対して距離を置くような生活が続いています。

健康管理や生活リズムの見直しといった理由もあるのですが、それに加えて、かつて情熱を注いでいたワインへの興味が少し落ち着いてきた――そんな感覚もあります。
とはいえ、昨年から今年にかけて、あのアンリ・ジャイエのブルゴーニュワインを味わう機会が3度ありました。(※クローズな世界すぎて、安易に特定できてしまうため写真はお出しできません。)

クロ・パラントゥではなかったものの、1本は村名ワイン、残りの2本は広域ブルゴーニュと格は下がるものの、いずれも20年以上の熟成を経たボトル。そのコンディションは驚くほど良好で、これまでに数百本、あるいは千本近いワインを飲んできた中でも、やはり心に強く残る体験となりました。その時の体験について駄文ですが、書き留めてみたいと思います。

ワインを飲むようになった経緯

ごく簡単に私がワインを飲んできた経緯を説明すると、20歳くらいからワインに興味を持ちだし、初めての一本はおそらくファミリーマートで売っているボジョレー・ヌーヴォーです。
当時は今よりも盛り上がっていて、ニュースなどでも報道されていて、どんな特別なワインなんだろうと思い、コンビニで購入して飲んだような思いがあります。しかし、なんかよくわからないなと思っていました。

しばらく飲み続けたのですが、一番感動したのが2012年頃にご馳走してもらったナパのブッチェラです。当時1,000円〜2,000円のワインしか知らなかったので、複雑な香りに衝撃を受けました。

初めて飲んだ高級ワイン

その後、少し逸れて5年以上ウイスキーの方にどっぷり浸かり、ひたすらシングルモルトウイスキーをやっていたので、本格的に再びワインを飲み出したのは25歳くらいでした。
そこからひたすらブルゴーニュワインを飲み続けて、去年35歳になるまで本当に1000本以上は飲んできたのではないでしょうか。

フランスワインはやはり偉大だった

フランス人の評価というのは非常に正確で、例えばメドック格付けの一級シャトーは、適度に熟成したものですと本当に傑作というか、有名な絵画を直接見ている体験をしているような、どこか感動的な風格や味わいを持っていて、香りが刻々と変化していき、グラスに注いだ瞬間から飲み終わる瞬間までどんどん雰囲気が多面的に変化していく感覚は、やはり傑作としか表現ができないものです。

一方でブルゴーニュワインに関してはさらに難解で、まずコンディションがまちまちで、安定していない保管状態ももちろんそうなのですが、仮に保管状態が良くても、中が傷んでいたり、香りが思ったより広がらなかったり、酸味が全面に出てきてしまったりだとか、ベストなコンディションに持っていけるものが少なく、またそのタイミングが短いといった場合もあります。

例えばグラスに入れてからの短い時間だったり、またはコルクを開けてからの短い時間だったりと、ベストな状態で素晴らしいブルゴーニュワインを楽しむのはそもそもなかなか難しいです。
また、トップキュヴェの10万円以上のワインは必ずしも美味しいというわけではなく、情報量がすごく増えていくといったイメージが正しいかもしれません。

そして、これはボルドーワインと同じなのですが、香りもどんどん変化していき、またキャッチできる香りも、その受け手の年齢や経験値や嗅覚や体調など、本当にベストな状況で対峙できるかどうか、奇跡的にめぐり合えるかどうかはその時次第となります。

ブルゴーニュワインを飲まなくなってしまった理由

ブルゴーニュワインについての関心がなくなってしまった理由は、2つの体験が主になっています。
1つ目は、おととしフランス旅行をして、ブルゴーニュのワインのお祭りに参加して滞在したのですが、その時の現地で樽から汲み上げてダイレクトに飲んだワインの味わい、これを経験した時に、全身に電撃が走るような体感でした。
もはやこの体験をしてしまうと、日本でどんなワインを飲んだところで、真の感動にはたどり着かないのかなと思ってしまい、同時に感動とともに大きな後悔もしてしまいました。

例えば、日本の田舎にある港町で、熟練の寿司職人が握る寿司を食べた後、アメリカのニューヨークに帰って、どんな寿司を食べたところで、結局その昔の日本の滞在の寿司に思い出が引っ張られてしまう。この例えが近いのではないでしょうか。

つまり、どれだけ優れたワインでも、現地の樽から直接汲み上げて飲む体験と比べると、スケールが小さく感じてしまいます。そして、おそらく実際に美味しかったんだと思います。

全く移動することなく、地下のワインセラーで直接飲む体験は、湿度なども完璧だったかもしれませんが、状態が極めて良く、酸化の状態などもベストで、さらにその中では50年以上前にボトリングされた1970年代のグラン・エシェゾーなども飲ませてもらったのですが、やはり地下セラーで半世紀1ミリも動かされていないボトルの中は、信じられないほど状態が良く、これを日本国内で再現するのは本当に難しいと思います。

こういった経験から、ブルゴーニュワインに限界があるなと感じてしまいました。

もう一つは、去年の体験でアンリ・ジャイエを飲んだことです。

アンリ・ジャイエとの対峙は難解を極める

私の感覚では、ゴッホの燃え上がる太陽のようなイメージがありました。

具体的には1888年のゴッホの『種を蒔く人』を強くイメージしました。

人間の営み、つまり自然の循環の一部が放射線状に輝く太陽、そこには人の営みと自然との調和や融合があり、さらに種を蒔いている人は『マタイによる福音書』の十三章のような、種を蒔くことに対してのイメージというかインスピレーションがあります。こうした力強いイメージがありました。

私は昔は漫画『神の雫』の表現が神秘的でバカバカしいなと思っていました。
まだワインも飲んでいない10代の頃にあの漫画をちょっと読み、すごく憧れてかっこいいなと思い、ワインを飲み出すと「あんな背景なんて出てきたりしないし、音楽も聞こえてこないし、絵画も見えてこないよ」と思ったのですが、何百本も飲んできたり、その中で偉大な体験をすると、別のタイミングで経験した偉大なことをふと思い出したりフィードバックして、むしろそれに似ているとしか言いようがないような状況になりました。つまり漫画の表現はは正しかったのです。

それは人間として享受できる感動の行き着くところがあるように。

ワインを飲んだとき、もはや香りや味の表現だけではスケールが収まらない場合に、精神世界や、そうした偉大な作品を見たときのインスピレーションと一致したり、あるいは波長や波動の一部がリンクしていたりするのかもしれないですね。

テクニカル的には事実上(virtually)不可能

ただテクニカルに表現をすると、25年ほど前のアンリ・ジャイエの作品は、おそらくいくら優れていたとしても、ここ5年や10年前のフレッシュで鮮やかなエレガントさが残っているブルゴーニュワインとは違い、やはり段階は古酒に入っていて、古酒の特有のニュアンスが前面に出ています。

しかし酸化が穏やかで高いレベルでコントロールされているので、今飲んでも確かに美味しいとは思うのですが、それは古典的な建築を、後に残ったものだけで評価するのに近しいのかもしれませんね。

そこが少し難しいところで、パルテノン神殿と聞いたら、私たちはすでに屋根が崩れ落ちて天井がなく、どこか風化したパルテノン神殿を思い起こすかと思います。

しかし例えば30年前のブルゴーニュワイン愛好家からしたら、彼らの中のアンリ・ジャイエは、まだパルテノン神殿に屋根があり、そこには鮮やかな彫刻が施されていて、神殿としての機能が残っていたものをイメージするのかもしれませんね。

ですので、時が経った後のもので、頭の中でどこか補正しなければいけない部分もあり、そういった意味でどれだけコンディションが良くても、難しい戦いになっていくのかもしれません。

もしも資産が何十億円もあり、無制限にアンリ・ジャイエの残っているものを片っ端から開けることができるのであれば、中にはさらに奇跡的な体験をできると思います。
それらの中には、コンディションが更に良いものが何本かあることはおそらく確実なのですが、限られた手札の中から切って体験するのであれば限定的です。私が飲んだ3本のようにコンディションが良く飲めるといった段階であっても、やや古風な印象があったりだとか、スケール感は大きく、先ほどのようにゴッホの力強いイメージがあるのですが、近代的なブルゴーニュワインと対比すると古典音楽や古典美術に近いそれです。ギヨーム・デュファイのミサ曲から現代人が何を感じ取れるのかに近しいです。分かる人には分かるのでしょうが、鍛錬を積んできたはずの飲み手であっても難読でした。

分かりやすく噛み砕くと、現代的なブルゴーニュワインのような、バラの香りが飛び出てくるといったものや、フルーツの盛り合わせや、バスケットの中にたくさん果物が入っているものをイメージするという感じではなく、どこか抽象的な概念に収まっていくのではないでしょうか。

つまり、よほど何らかの事情で何本もアンリ・ジャイエを開けることができる人でない限り、そこに執着したり探求するのは事実上不可能なのかもしれません。

誰しもがエベレストの頂点に辿り着き、その本質的な意味を理解できないのと同じように、私は私の理解できるスケールでブルゴーニュワインを経験したので、そうした意味では「アンリ・ジャイエを飲んで人生が変わった」と言えますし、同時にワインに興味を失う原因ともなりました。

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