なぜラジオはつまらないと感じるのか ― 「退屈」と「心地よさ」を分ける境界線を考える

コラム
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私は昔からラジオというものが苦手でした。
「退屈」「何も得ない」「聞いていても頭に何も残らない」「時間を無駄にしている」
そんな印象が長年続いていました。

しかし最近、その理由がはっきりとわかってきました。
単に“好みの問題”ではなく、ラジオというメディアの構造そのものが、噛み合っていなかったのです。同時に、ラジオを「面白い」と感じる人がなぜ一定数いるのかも理解できるようになりました。

今回はその両面を掘り下げ、なぜ人によってここまで印象が分かれるのかを考察してみたいと思います。


ラジオをつまらないと感じていた理由

私がラジオをつまらないと思っていた最大の理由は、「発言に尖りがない」という点にあります。多くのラジオ番組では、MCが誰かを傷つけないよう、できるだけ多くの人が共感できるように話を進めていきます。

「今日は暑いですね」「そろそろ衣替えの季節ですね」──

そうした当たり障りのない話題や、無難な共感トークが中心です。時にはジョークを交えながら笑いを取ることもありますが、その笑いもどこか予定調和的で、あまり印象に残りません。

つまり、ラジオの会話は「衝突のない言葉の循環」であり、そこには強烈な意見や明確な立場、哲学的な思索がほとんど存在しません。

私はもともと、右でも左でも構わないから強い意見を持つ人が好きです。極端でもいいから「自分はこう考える」と言い切る人の言葉にこそ人間味を感じます。

そのため、ラジオのように「全方位に気を使った発言」を聞くと、まるで古い時代の人工知能が「それはいいですね」と繰り返しているような、生気のない対話に聞こえてしまうのです。


ラジオMCという職業の構造

もちろん、ラジオMCの方々が悪いわけではありません。

彼らは「多くの人に心地よく聴かれる」ことを使命として仕事をしています。

スポンサーの意向、放送倫理、子供から高齢者まで年齢層の幅広さ──

さまざまな制約の中で「誰も不快にさせず」「どの世代も置いていかない」会話を求められます。つまり、ラジオは「思想」や「知識」を伝えるメディアではなく、調和と安らぎを届けるための“公共空間”なのです。

極端な意見を言えば炎上し、スポンサーにも迷惑をかけます。だからこそ、ラジオの発言はどんどん丸くなっていく。そして気づけば、ラジオは“何も起きない空間”になっていきます。


「尖り」がないことへの物足りなさ

私は、意見が強い人に惹かれます。たとえその意見が自分と真逆でも、「その人が本気で考え抜いた末にたどり着いた結論」であれば、尊敬すら感じます。

それが「何かを強く好き」「何かを絶対に許せない」といった極端な感情であっても、その裏には必ずその人が生きてきた背景や、経験の積み重ねから生まれた理由が存在します。つまり、「なぜその人はそう感じるようになったのか」という構造的な原因があるのです。

それが単なる気分や好みではなく、人生の中で培われた価値観や、美学、信念から導かれた結果である場合、その発言には深みと一貫性が宿ります。だからこそ、私はそうした人の言葉に強く惹かれてしまいます。

車の話題に限らず、音楽でも、食べ物でも、思想でも構いません。
「これだけは譲れない」「これは間違っている」と言い切る人の言葉には、その人の“生きた時間”が感じられます。そして、その考え方の背後にある構造が見えてくると、私は思わず「なるほど」と納得してしまうこともあります。

ときに反論したくなったり、部分的に共感したりしながら、自分の考えを再構築していく──
そのプロセスこそが、私にとって「楽しみ」なのだと思います。

一方で、ラジオの会話にはそうした思考の“摩擦”がありません。
「みんながそう思うからそうですよね」といった、平均化された言葉だけが静かに流れていく。
私が「つまらない」と感じたのは、この「脳がまったく使われない感覚」に対してだったのかもしれません。


一方で、ラジオを面白いと感じる人の心理

しかし、最近になって私はあることに気づきました。

それは、「ラジオは思考を刺激するメディアではない」という事実です。

ラジオは、運転中、料理中、勉強中など、何か別のことをしながら聴くことを前提としています。

つまり、「集中して聴くためのもの」ではなく、「集中を邪魔しないための音」なんです。ラジオの会話が当たり障りないのは、「聴き流しても問題ない設計」だからこそです。

刺激が強すぎると、脳のリソースが奪われて作業の妨げになる。だから、あえて“浅くて穏やかな言葉”が選ばれているのです。

この構造を理解してから、私はラジオを嫌いではなくなりました。むしろ、「音の環境」として最適化されたメディアなのだと感じるようになりました。


ラジオの本質──「内容」ではなく「存在」

テレビやYouTubeは「視覚的に惹きつける」ことが求められます。一方で、ラジオは“目のいらない時間”を満たす存在です。

その目的は「情報伝達」ではなく、孤独の中に人間の気配を作ること人間の声というものは、単なる情報ではなく「社会的な安心感」を生む音です。

無意識のうちに、私たちは声のトーンやテンポ、間の取り方から「人の存在」を感じ取っています。だからこそ、ラジオのMCが一定のテンポで淡々と話すことに意味があるのです。

ラジオとは、会話ではなく“気配”を届けるメディア
これを理解した瞬間、私はそれまでの違和感がすっと消えました。


記憶に残らないことの価値

面白いことに、私はこれまで何十回とラジオを聴いてきましたが、一つとして印象に残っているトークがありません。

しかし、考えてみれば、それこそがラジオの理想的なあり方なのかもしれません。

ラジオは「記憶に残すためのコンテンツ」ではなく、記憶に残さないことで生活のリズムを保つメディアです。作業をしていても邪魔にならず、人の声が聞こえることで孤独感が薄まり、静寂よりも心が落ち着く。

それはちょうど、BGMや環境音のような存在です。ラジオは「聴く」ものではなく、「そこに流れている」もの。

この“存在の仕方”こそが、本来の価値なのだと今では感じています。

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