iモードとは何だったのか、日本独自インターネットの変遷

コラム
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iモードとは何だったのか

1999年、NTTドコモが開始したiモードは、日本におけるインターネットのあり方を大きく変えたサービスでした。

いま私たちはスマートフォンを通じて、ブラウザを開けば世界中の情報へ接続し、アプリを起動すれば音楽も映像も決済も会話もひとつの端末で済ませています。しかし、その原型にあたる生活感は、すでにiモードの時代にかなりの部分が形になっていました。

携帯電話でメールを送り、ニュースを読み、着メロを設定し、待ち受け画像を落とし、占いを読み、掲示板に書き込み、個人サイトを巡回し、課金してコンテンツを買う。そうした一連の振る舞いは、あとから振り返ればスマートフォン時代の単なる前史ではなく、それ自体でひとつの完成した文化圏を作っていました。

ただし、その文化は現在のスマートフォンとはまったく違う条件の上に築かれていました。

通信は遅く、画面は狭く、画像は重く、端末ごとの差が大きく、機種ごとにできることが違いました。今の視点では不自由としか見えないその条件の中で、人々はなぜあれほど熱中したのか。なぜ着メロ本を買って一音ずつ入力し、なぜ公式サイトに月額300円を払い、なぜ待ち受け画像を探し、なぜ携帯だけで日記を書き、なぜ小さな写真一枚を送って興奮したのか。

1989年生まれの著者が知りうる限りですが、その変遷を解説していきます。

電話に簡素な「メール」が付いていた時代

iモード初期の携帯電話は、現在のスマートフォンとは別の生き物でした。
端末はストレート型が主流で、アンテナがあり、画面は小さく、白黒表示でした。

何よりまず、当時の携帯電話は電話でした。5Gどころか4Gでも3Gでさえない、2G=movaで電波も入らない場所が多かったです。「ここが電波が入らない」ではなく、「地図の赤く塗ったココが着信できる」と逆でした。山間部などは電話できないのは当たり前でした。

そこにショートメールが付き、少しだけテトリス以下のゲームが付き、そしてiモードが入ってきた、という順番です。

この時代の空気を思い出すには、端末そのものの質感を忘れてはいけません。白黒の小さな液晶、物理ボタン、少ない文字数表示、端末内蔵の簡単なミニゲーム。テトリスに近いような簡素なゲームが入っているだけでも、十分に「遊べる電話」でした。

http://www.nttdocomo.co.jp/new/products/index.html

いまの感覚からすると、そんな程度で盛り上がるのかと思うかもしれません。しかし実際には、その程度だからこそ面白かったのです。限られたスペックの中に、少しずつ新しい機能が積み上がっていく感覚がありました。何かが完成しているのではなく、毎年少しずつ未来に近づいていく感じがあったのです。

この頃のインターネット全体も、まだいまとは違う空気の中にありました。パソコンの世界では、ダイヤルアップ接続で電話回線を専有し、画像一枚を開くのに何分も待つことが珍しくありませんでした。Yahoo!のようなディレクトリ型検索エンジンからカテゴリを辿ってサイトを巡回し、目的のページを開いたら回線を切る、そんな使い方も本当にありました。

iモードの世界もそれに似ていて、最初から「自由なWeb」だったわけではありません。iMenuを起点に、登録されたサイトを辿る、軽い情報をすばやく読む、必要があれば課金する。パソコンサイトと携帯サイトは連動していない別世界で、同じインターネットのようでいて、実際にはまったく別の生態系でした。

その意味で、iモードの出発点は「制約」でした。画面が狭い、通信が遅い、パケット代が気になる、画像は重い、ブラウザは特殊、端末差が大きい。その制約の中で何ができるか、どう見せるか、どう遊ぶかが問われていました。

着メロ文化と「自分で作る音楽」

iモード時代の象徴的な文化として、着メロを外すことはできません。
ただし、その着メロ文化も最初からダウンロード前提だったわけではありません。

最初期の携帯電話では、端末に最初から入っている5種ほどの着信音の中から選ぶ程度が一般的でした。しかし、そこから少しずつ「自分の音」を持ち込む文化が広がっていきます。

ここで重要なのは、初期の着メロがいま私たちのイメージする「曲」ではなかったことです。8和音や16和音といった表現が広まり始める前、あるいはその過渡期の音は、現在の音源とはまったく違う、MIDI的で電子的なものでした。

質感としては、初期の白黒のゲームボーイで鳴っていたような、簡素で記号的な音に近いものです。10秒から15秒程度の短いフレーズが鳴って、それがループする。それでも、それが当時のユーザーにとっては「自分の好きな曲」でした。完全再現ではなくても、イントロの雰囲気がある、サビの頭が分かる、その程度で十分だったのです。いまから見れば極端に貧弱な音でも、当時の携帯電話にとっては革命でした。

さらに面白いのは、その音を「買う」前に「作る」文化があったことです。
歌BON、着メロファクトリー、最新着メロベストヒットPREMIUMのような着メロ本が本屋にずらりと並び、人気J-POPのメロディーが携帯電話入力用の形式に変換されて掲載されていました。

利用者はその譜面を見ながら、ドレミファソラシドを一音ずつ入力し、和音を組み、ベースや伴奏を作っていきます。いまならDAWやシーケンサーで行うようなことを、当時は携帯電話の小さな入力画面でやっていたわけです。きわめて原始的な意味での作曲・編曲体験でした。

やがてiモードが広がると、着メロのダウンロード文化も本格化していきます。月額300円で10曲をダウンロードできる、有名曲を1曲30円から50円程度で買える、そうした仕組みが一般化します。

ただし、ダウンロードしたからといって満足できるとは限りません。曲があまり似ていないこともあるし、安っぽさが強いこともある。誤ってクリックして限りあるダウンロード数を無駄にしてしまう。ある種のガチャ的要素がありました。それでも人は落としました。好きな曲が、自分の携帯電話で鳴る。それだけで十分に価値があったからです。

歌詞サイトも同じでした。まだ歌詞が無料で検索できる時代ではなく、好きな曲の歌詞を見るのに1曲ごとの課金(だいたい10円)が成立していました。

J-フォンの写メールが変えた「写メ」

iモードの時代を語るなら、着メロと並んで、写真文化、つまり写メの始まりも重要です。

いまでは携帯電話で写真を撮ることなど、あまりにも当たり前すぎて意識すらしません。しかし、携帯電話で写真を撮って送ることが一般的ではなかった時代はまさに革新的でした。その起点になったのは「J-フォンの写メール」。J-フォンが「携帯で撮った写真を送る」という行為を強く打ち出したことで、携帯電話は単なる文字通信の道具から、画像をやり取りする道具へと一歩踏み出します。

ただし、ここでも大事なのは、その初期の写真が今の感覚からすると信じられないほど粗かったことです。最初のころの画像は、白黒に近い印象の非常に荒いもので、切手サイズ程度の情報量しかないような感覚でした。はっきり言えば、白黒ゲームボーイ程度の、きわめて素朴な画像です。しかし、その「たった一枚」を送ることが楽しかったのです。誰かに見せたいものを撮る、撮ったものがメールに添付される、相手に届く。画質や色再現の問題ではなく、「自分が見たものを持ち運んで渡せる」ということ自体が新しかったのです。

その後、NTTドコモやKDDIも写真付きメールや画像通信に対応し、携帯写真文化は徐々に一般化していきます。しかし、ここでも大きな壁がありました。キャリアごとに画像メールの仕様が違っていて、J-フォン同士では送れても、NTTドコモやKDDIとの間ではうまく届かないことがある。画像が削除される、表示できない、サイズが合わない、添付を受け付けない。つまり、写真文化は盛り上がっているのに、通信の世界はまだ分断されていたのです。

その断絶を埋めるために登場したのが、「ななメール」のような中継サービスでした。本来送りたい相手のアドレスの「.ne」の後に「7」を付けて送ると、中継サーバー側で画像を処理し、場合によってはリンク化して相手に届ける。

例えばabc@docomo.ne.jpの場合はabc@docomo.ne7.jpといった具合です。
ユーザーから見ると、少しアドレスを書き換えるだけでキャリアの壁を越えられる、きわめて覚えやすく実用的な仕組みでした。

こうした仕組みが生まれたこと自体が、当時のモバイル文化の本質を示しています。
サービスが不十分なら、利用者は工夫して外側から穴を埋める。そこには現在のような大規模プラットフォーム一極集中とは違う、ユーザー主導の工夫の余地がありました。

初期の写真文化は、高画質な写真共有の文化ではありませんでした。むしろ、低画質な画像一枚をどうにかして送り合い、それだけで盛り上がっていた時代だったのです。

公式サイトと非公認サイト

iモードの世界は、公式と非公式の二層構造によって特徴づけられていました。
表側には、NTTドコモの審査を通過した公式サイトがあります。着メロ、占い、ゲーム、芸能情報、歌詞、待ち受け画像、小説、ニュース、交通情報、ショッピングなど、いわゆる「安心して課金できる世界」です。公式サイトに入るには法人であることや運営体制、技術仕様への対応などが必要で、ドコモとの契約の上で、携帯料金と一緒に課金できる仕組みを使えました。これは現在のアプリストアにかなり近い構造であり、モバイルコンテンツ市場の基盤になっていました。

出典元http://ip.tosp.co.jp/

しかし、iモードのリアリティは、その公式サイトだけではとても語れません。公式の外側には、「勝手サイト」と総称される非公式の文化圏がありました。そこには個人の日記、BBS、創作小説、ファンサイト、素材サイト、裏技情報、ランキングサイト、リンク集、同人文化、アングラな情報までが雑然と共存していました。URLを直打ちする、リンク集から飛ぶ、掲示板の書き込みから辿る。そうした回遊によって生まれるネットの空気は、現在の検索エンジン経由のWebとはかなり違うものです。公式サイトがショッピングモールだとすれば、勝手サイトは路地裏と市場が混ざった街でした。

ここでさらに重要なのが、出会い系サイトの存在です。いまでは出会い系サイトというと、強い規制や危険性の文脈で語られがちですが、当時の初期の出会い系文化は、まだ社会問題として全面的に認識される前の、非常に古典的で素朴なシステムを持っていました。年代や年齢を「10代」「20代」「30代」「40代」といった大まかな区分で選び、さらに男性・女性、神奈川県、東京都、埼玉県といった県名を入力して絞り込み、「友達募集」「恋人募集」「趣味友募集」といったカテゴリで一覧が出てくる。そこには趣味や簡単な自己紹介、場合によっては個人のメールアドレスがそのまま書かれていて、興味を持った人が各自そこへ直接メールを送る。現在の感覚からすると驚くほど無防備で、極めて自由な仕組みでした。

当時はまだ規制が現在ほど厳しくなく、本人確認や年齢確認も今ほど徹底されていませんでした。人を探す、話し相手を探す、趣味の合う人を探す、恋人を探す。

いまのSNSやマッチングアプリから見れば機能的にはかなり粗いのですが、その粗さゆえに、むしろネット黎明期らしい露骨さと自由さがありました。もちろん危うさも多く含んでいましたが、それも含めて、当時のiモード空間の一部だったのです。

そして、この勝手サイト文化は後に、前略プロフィールや魔法のiらんどのようなサービスへと流れ込んでいきます。HTMLを自力で書けなくても、メールアドレスだけで簡単に自分の場が持てるようになり、若い世代が一気に参入してきた。

匿名が当たり前だったインターネットに、顔写真や友達の名前や学校の話が少しずつ持ち込まれていく。その変化もまた、iモード時代の大きな転換点でした。

mova後期からFOMA前期へ

mova後期になると、iモードはもはや新しいものではなく、日常の生活空間になっていました。初期の F502i や D502i のような「カラー液晶そのものが新鮮だった時代」を過ぎると、N502it のような大型カラー液晶の人気機種や、音楽再生を強く意識した SO502iWM のような個性的な端末も現れ、携帯電話は単なる通話機ではなく、「何をしたいか」で選ぶものになっていきます。

さらに P209is や D209i のようなカラー端末、4和音対応の N209i や ER209i なども並び、モノクロ、カラー、ストレート、折りたたみ、軽量型と、端末ごとの個性がかなりはっきりしていました。カラー液晶は珍しくなくなり、折りたたみ端末が増え、カメラやiアプリの存在感も増し、着メロはより高和音化していきます。

一方で、技術的制約は依然として色濃く残っていました。端末ごとの差、画像の重さ、メール容量、キャリア間互換性、通信速度、電池の持ちなど。今では信じられませんが、キャリアによって充電器が違うので、職場や学校はACアダプター祭りでした。

「富士通の充電器持ってる人いる!?」といったやり取りが毎日ありました。
また同じ会社でも時期によって充電器が異なったり、電源の不便さは考えられないほどです。

そしてその頃から、FOMAが登場してきます。movaが生活の隅々にまで浸透していた一方で、N2002、P2102V、N2102V、SH2101V といった初期のFOMA端末は、3G化による高速化と大容量化の未来を先取りしていました。

現実の使い勝手はまだ発展途上で、大きい、重い、電池が持たない、エリアが弱いといった問題も抱えていました。さらにテレビ電話のような新機能も、「未来っぽいが、まだ日常の中心にはなりきらない」存在でした。

時期

端末

通信

着メロ

サイト文化

ユーザー体験

1998年以前〜1999年直前

ストレート型、白黒、小画面

通話中心、簡易データ

固定音中心

ほぼ未形成

電話+少し便利

1999年

初期iモード端末、モノクロ中心

9600bps級、通信量課金

まだ固定音優勢

公式サイト中心

メールと簡易Webの驚き

2000年前半

502i登場、カラー端末出現

まだ低速、重い

手入力文化強い

公式サイト拡大

iモードを使うために端末を触る

2000年後半

209i・502i・821i並立、個性化

同上

DL着メロ本格化

占い・芸能・歌詞など増加

端末選びが楽しくなる

2001〜2002年

カラー定着、折りたたみ増加

安定化

手入力からDL中心へ

勝手サイト拡大

生活の中にiモード

2002〜2003年

カメラ・画像文化拡大

制約ありつつ活用

高和音化

個人サイト、BBS、裏サイト

毎日使う生活空間

FOMA前期

先進的だが重く不安定

3G化の入口

リッチ化の準備

既存文化の拡張

新しいがまだ様子見

FOMA中期

端末完成、カメラ・iアプリ充実

高速化

着うたへ

前略プロフィール、魔法のiらんど等

ガラケー文化の黄金期

FOMA後期

ワンセグ、GPS、フルブラウザ

高機能化

着うたフル等

成熟・飽和

完成されたが閉じた世界

2010年以降

スマホ流入

フルインターネット

OS側へ吸収

SNS・アプリへ移行

iモード文化の縮小

FOMA後期とガラケー文化の完成

FOMA中期から後期にかけて、いわゆるガラケー文化はほぼ完成形に達します。
端末は多機能化し、カメラは当然のものとなり、デコメール、着うた、着うたフル、iアプリ、フルブラウザ、GPS、ワンセグ、おサイフケータイまで揃っていきます。

かつて雑誌が予言していた「TVやウォークマン、ゲーム機にもなる」という未来は、この頃にはかなり現実のものになっていました。

この頃のiモード空間には、独特の一体感がありました。公式サイトは巨大な市場として完成し、勝手サイトは個人の表現空間として成熟し、前略プロフィールや魔法のiらんどのような場が若年層の自己表現を支えます。待ち受け画像を変える、デコメールを送る、着うたを設定する、プロフィールページを更新する、友人の掲示板を見に行く。携帯電話は通話機ではなく、個人の生活そのものでした。

だからこそ、終わりは見えにくかったのだと思います。これだけ何でもできるのに、なぜ別のものが必要なのか。そう感じた人は少なくなかったはずです。しかし、問題は機能の数ではなく、構造の違いでした。スマートフォンは、キャリアが用意した最適化された空間ではなく、OSとアプリストアが中心にある、より開かれた空間でした。そこにフルインターネットが重なり、SNSが重なり、汎用的なメールが重なり、コンテンツ課金の主導権も変わっていく。iモードは、完成していたからこそ、そのまま限界にもなったのです。

ガラケーと並行した世界

このことは、iモードやガラケー文化を振り返る際にあまり語られませんが、実際にはガラケーの進化と並行して、別のモバイル文化が存在していました。

それが、PDAやパーソナル端末、そして小型モバイルPCの世界です。たとえばソニーのCLIEやシャープのザウルスのようなPDAは、いま振り返ると、現代のiPhoneやスマートフォンにかなり近い思想を早い段階から持っていました。ガラケーが通話とキャリアサービスを中心に発達した端末だったのに対し、PDAは最初から、情報を持ち歩き、整理し、必要に応じて通信するための小型コンピュータとして考えられていました。スケジュール管理、アドレス帳、メモ、文書閲覧、メール、簡易ブラウジングといった要素が、ガラケー本流とは別のかたちで先行していたのです。

重要なのは、2000年前後の時点ですでに、この種の端末には現代のスマートフォンに近い構造が見えていたことです。小さな画面の中にアプリケーションがあり、情報を保存し、ブラウザ的な機能が動き、プロバイダーメールを受信するメーラーが入っている。ただし、端末の思想は未来に近くても、通信環境のほうがまだ追いついていませんでした。

当時はWi-Fiが一般化しておらず、ADSLやISDNですら十分に普及していない時代です。そのため初期のPDAは、家ではダイヤルアップ接続で電話回線につなぎ、一日に1〜2回メールを受信するような使い方が中心でした。出先では、公衆電話や通信アクセスポイントを使って必要な時だけ接続し、メールを送受信し、情報を取りにいく。いまの常時接続とは逆に、「つなぐ」という行為自体が明確なイベントだったのです。

やがて、カードスロットや拡張スロットに通信カードを挿し、LANや無線通信を使う文化も広がります。初期の無線LANやアンテナ付きカードは非常に遅く、設定も簡単ではありませんでしたが、ケーブルなしで部屋の中から通信できること自体が新鮮でした。この流れと重なるように登場したのが、AIR-EDGEやAirH”のようなデータ通信サービスです。ソニーのVAIOの小型モデルやパナソニックのLet’s noteに通信カードを挿し、外でブラウジングやメール、チャット、文書作業を行う。iモードが「携帯電話を情報端末化した世界」だとすれば、こちらは「パソコンを持ち歩く世界」でした。

そして、この並行世界がガラケー文化の後期と重なるところで、象徴的な端末が現れます。2005年に発表されたウィルコムのW-ZERO3です。W-ZERO3はシャープ製で、W-SIMに対応し、PHSとしての音声通話に加え、無線LANも利用できるWindows Mobile搭載端末でした。単にキーボード付きだったからではなく、通話できる端末の中に、はっきりとOSの入ったコンピュータが見えるようになったことが衝撃でした。

Pocket Outlook、Internet Explorer Mobile、Office Mobile、Windows Media Player、PDF Viewerなどを使い、メール、ブラウザ、音楽再生、Office系アプリ、PDF閲覧といった、ガラケーよりずっとPCに近い作業環境が実現されていきました。BlackBerryをスマートフォンの起点と見る人もいれば、iPhoneを出発点と考える人もいますが、日本の文脈で見ると、W-ZERO3は確かに大きなであり原典でした。ガラケー文化の背後には、常にもう一つの流れが並走していたのです。

iモードが終わっても、文化は終わらない

iモードは、白黒の小さな画面から始まり、ストレート端末、ミニゲーム、固定着信音の時代を経て、着メロの自作文化へ進み、カラー液晶や画像メールや写メール的な写真文化が広がり、画像転送のような裏の仕組みが生まれ、公式サイトと勝手サイトが二層構造を作り、出会い系やプロフィール文化が携帯の中で増殖し、FOMA期にはひとつの生活空間として完成していった。
その全体が、iモードの時代でした。

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無数の無意味のアクセスランキングに飛ばされる中、ひとつだけが本物のリンク。こんな不思議な文化もありました。たった一枚の待ち受けをダウンロードするのに、何十回も試行錯誤して、やっと240×320pxのQVGAのセクシー画像1枚が得られるのです。

2026年の今日をもって、iモードは終わりました。
しかし、いま私たちが使っているスマートフォンは、突然生まれたものではありません。

メール、課金、画像や音楽で端末を自分仕様にする感覚、その多くは、すでにiモードの時代に形になっていました。いまの便利さの下には、あの不自由で濃密だった時代があります。
スマートフォンの中には、いまもiモードの文化が確かに残っているのです。

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