若い頃は「正しさ」をぶつけていた
36歳になって、もう一つ実感したことがあります。それは、世の中では騙されたふりをすることが意外と大切だなと思う場面が増えたということです。自分にとって極端に不利な条件や、自分がどうしても納得できない条件を提案されたり提示されたりした場合、20代の私であれば、かなり強く拒絶していたはずです。
あなたは悪質であり、社会通念上も法律上も問題があり、到底納得できないので今後一切関わらないでください、といったように、かなり直接的で断定的な言い方をしていたと思います。
また、あなたが売ろうとしているものは粗悪で価値がなく、やっていること自体が間違っているといったように、行為だけでなく人格にまで踏み込んで否定していた場面もあったと思います。
不合理に対して正面から戦っていた頃
例えば、法律上定められている水準を明らかに超える手数料を要求されたり、取引において明らかに足元を見られて不利な条件を飲まされそうになったりする場面です。
そうしたとき、以前の私は強く攻撃的に出ていました。それはある意味では正しい反応であり、不当なものに対して声を上げることは重要なことでもあります。しかし同時に、そうしたやり取りの中で消耗していたのも事実です。
正論をぶつければぶつけるほど、相手も態度を硬化させ、話がこじれていくことも少なくありませんでした。結果として、自分の時間や精神的な余裕を削ってまで戦う必要があったのかと、後から振り返って思うことも増えてきました。
騙されたふりをして距離を取るという考え方
30代後半になってからは、むしろ騙されたふりをした方がスムーズにいくなと感じることが増えました。本当にその相手や業者、あるいは組織が悪質で、本来であれば是正されるべきことをしている場合であっても、その場その場の対応としては、一旦受け入れるような態度を見せる。
そして肝心なところではぐらかし、無理に対立せずにフェードアウトしていく。このやり方の方が結果的にストレスも少なく、余計な摩擦も生まれません。正しさを証明することよりも、自分のリソースを守ることの方が重要だと感じるようになったのだと思います。
相手の背景を想像するという余裕
世の中は本来フェアで対等であるべきであり、詐欺や悪徳商法のようなものはなくなってほしいと心から思っています。
ただ一方で、そうした業者に関わっている人もまた、誰かの指示のもとで動いていたり、置かれている状況の中でその仕事をしていたりする、一人の人間でもあります。ロボットのように機械的に悪を行っているわけではなく、それぞれに事情や背景があります。
もちろんだからといって不当な行為が許されるわけではありませんが、目の前の一人に対して強い正論を突きつけて人格まで否定することが、本当に最適な対応なのかは、少し距離を置いて考えるようになりました。
聞いてあげることも大人の振る舞い
例えば、新興宗教の勧誘の話などをSNSで見かけることがあります。一軒一軒訪問したり、駅前で声をかけたりする人に対して、多くの人は無視するか、あるいは強い言葉で否定します。あなたの信じているものは間違っている、これは詐欺だ、組織として問題がある、といった指摘は、事実として正しい場合もあるでしょうし、正義感からそうした言葉を投げかけている人もいると思います。
ただ、その言葉を受け取る側は深く傷つくかもしれませんし、世の中は冷たいと感じてしまうかもしれません。そして中には、その「外の冷たさ」を逆に利用して、組織への帰属意識を強めるように仕向けているケースもあると聞きます。だからこそ、必ずしも正しさをそのままぶつけることだけが正解ではないのだと思います。
一生懸命に話をしている相手に対して、すぐに否定するのではなく、ある程度までは話を聞き、適当なところでやんわりと距離を取る。知らないふりをしたり、騙されたふりをしたりすることで、無用な対立を避けることができます。
もちろん、すべてを受け入れる必要はありませんし、線引きは必要ですが、正しさを振りかざすだけでなく、相手との関係性や状況に応じて柔らかく対応すること。それもまた、30代になって身につけていくべき一つの姿勢なのかなと感じています。


