ディズニーは「本物を薄めた文化」なのか、それとも入口なのか

コラム
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ディズニーは「子供向け」だと思っていた

私は昔から、あまりディズニーが好きではありませんでした。

どちらかというと、「アメリカ的でカジュアルな子供向けエンターテインメント」という認識の方が強かったと思います。ミッキーマウスがこちょこちょ動いて、シンプルなストーリーが進行していく。なんとなく陽気で、わかりやすく、少し軽薄な文化という印象すらありました。

特に10代から20代の頃は、どちらかというと難解な映画やヨーロッパ的な美術、静かなクラシック音楽の方に価値を感じていて、ディズニーのような大衆文化をどこか下に見ていた部分があったのだと思います。

しかし30代半ばになって、Disney+ に入り、昔のディズニー作品を少しずつ見直すようになってから、その考え方がかなり変わりました。

特に『Sleeping Beauty(眠れる森の美女) 1959年』を見た時の衝撃はかなり大きかったです。
ストーリー自体は非常にシンプルですし、今の基準で見れば王道中の王道とも言える内容なのですが、それ以上に、画面そのものが異常なほど美しかったのです。

私はそこで初めて、「ディズニーは単なる子供向け作品ではなく、美術や音楽や空間演出を大衆へ翻訳する巨大な装置なのではないか」と考えるようになりました。

『眠れる森の美女』は“動く中世絵画”だった

特に驚いたのが背景美術でした。
『眠れる森の美女』の世界観を作ったのは、Eyvind Earle(エイヴィンド・アール)というアメリカの画家・イラストレーターです。1950年代のディズニー・スタジオにおいて、背景美術や色彩設計を大きく変えた人物で、この作品では彼の美意識が作り出しています。

Souce: https://www.spacewhy.org/blog-3-1/colonized-by-style

普通のアニメーション作品はキャラクターが主役で、背景はその補助として存在します。しかし『眠れる森の美女』では逆で、背景そのものが主役級の存在感を持っています。森や植物は極端に平面的で、どこか中世ヨーロッパの宗教画やゴシック美術のような雰囲気があります。

しかも単なる西洋絵画ではなく、どこか日本画やペルシア美術のような平面性も混ざっています。木々は幾何学的に整理され、葉や花は装飾模様のように並び、タペストリーやゴブラン織りのような質感すら感じます。

一方で、色彩には繊細なグラデーションがあり、平面的なのに立体感がある。さらに木や鳥や森の形も独特で、サルバドール・ダリの幻想性やアンリ・ルソーの密林画のような空気感まで漂っています。

一枚絵として成立するだけでも凄いのに、それが滑らかに動いている。しかも1959年制作です。今から70年近く前に、これほど完成度の高い色彩設計や構図、美術思想をアニメーションとして成立させていたという事実には、本当に圧倒されました。

今のデジタル映像は技術的には圧倒的に進化していますが、逆にここまで強烈な個人作家性を持った商業アニメーションは少なくなっているようにも思います。

ディズニー音楽は「単純」ではなく、“翻訳された古典”だった

音楽についても、昔の私はかなり偏見を持っていました。ディズニーの曲は、「はい、ここで感動してください」と言わんばかりの単純なメロディーに思えていたからです。誰でも一回で覚えられて、口ずさみやすく、いかにもアメリカ的なポップソングだと感じていました。

しかし、改めて構造を見ていくと、実際にはかなり複雑で高度な設計がされています。
特に Alan Menken(アラン・メンケン)が関わった『Beauty and the Beast(美女と野獣)』や『Aladdin(アラジン)』などは非常に象徴的です。

ディズニー音楽は、クラシック音楽やオペラをそのまま使っているわけではありません。
むしろ、ブロードウェイ・ミュージカルとして再編集された形に近いです。会話から突然歌に入るのではなく、感情が高まった瞬間に自然に歌へ移行する構造になっていて、そのまま物語のクライマックスへ接続されます。

コード進行も単純ではなく、クラシック的な和声感をかなり強く持っています。つまりディズニーは、難解なクラシック音楽をそのまま大衆へ投げるのではなく、「子供でも理解できる感情表現」に翻訳しているのです。

これは非常に重要なことで、本格的なクラシックやオペラに最初から興味を持てる人はそれほど多くありません。しかしディズニーは、口ずさみやすいメロディー、感動的な映像、わかりやすいストーリーを入り口にしながら、その奥には古典音楽の文脈をしっかり残している。つまり、大衆文化でありながら、同時に文化教育装置としても機能しているのだと思いました。

ディズニーランドは“圧縮された世界旅行”なのかもしれない

これはディズニーランドやディズニー・シーにも同じことが言えると思います。

若い頃の私は、ディズニーランドを「偽物の街並みを作ったテーマパーク」くらいにしか思っていませんでした。しかし実際に空間をよく観察してみると、作り込まれていることに気づきます。たとえばディズニー・シーの地中海エリアには、ギリシャ建築やイタリア港湾都市の空気感が混ざっていますし、水辺の構造はヴェネツィア的でもあります。

一方、『アラジン』周辺では、中東、インド、ペルシア、アラブ圏のバザール文化を混ぜ合わせたような空間が作られています。もちろん、厳密に言えば歴史的にも文化的にも正確ではありません。ある意味では「都合よく編集された異国情緒」です。

しかし、逆にそれこそがディズニーの本質なのかもしれません。本来、複数の都市をまたぐ海外旅行には莫大なお金がかかりますし、時間も必要です。安全性の問題もありますし、言語や文化の壁もあります。しかしディズニーランドは、安全で、短時間で、多くの人が“異文化っぽさ”を体験できるようになっています。

しかも建築だけではなく、パレード、音楽隊、キャスト、照明、匂い、衣装、食事、音楽など、空間全体を使って世界観を作っています。これは単なる遊園地というより、巨大な空間演出作品に近いものだと思います。

ディズニーは「本物」を否定するのではなく、“入口”を作っている

私は10代から20代後半まで、ディズニーをかなり否定的に見ていました。
「本物を薄めたアメリカ的な偽物」という印象が強かったからです。

しかし、実際に古典美術や建築、クラシック音楽、海外旅行などを経験していく中で、逆にディズニーの凄さが見えるようになりました。ディズニーは、本物を単純化しているのではなく、「多くの人が理解できる形へ翻訳している」のです。

本格的なゴシック建築やクラシック音楽や中世美術は、知識がないと楽しみにくい部分があります。しかしディズニーは、それを子供でも理解できる形に変換している。そして、その入口からさらに奥へ進めば、本物の文化へも繋がっていく。

もちろん、プロの音楽家や美術研究者、本格的な古典文化に深く触れている人から見れば、ディズニーの世界は「本物を簡略化したニセモノの入口」に見える部分もあると思います。実際、歴史的な正確性や、美術的な純粋性だけを見れば、かなり大胆に編集され、わかりやすく再構築されているからです。

しかし逆に、これまでクラシックや中世美術に興味がなかった人や、そうした世界に触れる機会がなかった一般の人から見れば、ディズニーは「本物の文化へ続く最初の扉」にもなっています。つまり、“ニセモノに見える入口”と、“本物へ続く入口”は、実は表裏一体なのかもしれません。

昨今はクラシック音楽や美術館へ行く人口も減っていますし、長い物語や古典作品に触れる機会も減っています。そうした時代において、ディズニーのように誰でも入りやすく、それでいて古典文化への導線を残している作品群は、実は非常に価値のある存在なのではないかと、今は強く感じています。

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