ワインの話を始める前に、くだらない話にお付き合いください。夏になると、ライカを片手にどこかへ写真を撮りに行きたいと思うのですが、意外にも「これを撮りたい」と感じる場所がなかなか見つかりません。※カバー写真は渋谷駅です。
2012年頃、田舎に住んでいたのですが、車でさまざまな場所へ出かけ、自然の風景や人工物、神社、夏にはひまわりなど、目に留まったものを撮影していました。その頃は、「東京へ行けば魅力的な建築物や珍しいものがたくさんあり、レンズやカメラを扱う店も多く、もっと写真を楽しめるのだろう」と、東京をうらやましく思っていました。
ところが、憧れていたライカMにオールドレンズを付けて渋谷駅に立ったとき、私は何を撮ればよいのか分からなくなってしまいました。建築物も珍しいものも数多くありますし、人混みの中でカメラを構えることへの恥ずかしさも、少しはあったのかもしれません。しかし、それ以上に、人工物に囲まれた街の中では、思わずレンズに光を吸わせたい瞬間が意外なほど少ないことに、自分自身が驚きました。
同じようにライカを持つ人たちは何を撮っているのだろうと眺めてみると、路地裏の猫や倒れた自転車、走り去る車をあえてぶらして写した写真、あるいは人混みそのものを都市の風景として切り取った写真などが目に入ります。
どれも街の写真としてよく見かける表現ですが、渋谷という場所で自分が本当に心を惹かれ、シャッターを切りたいと思う瞬間を見つけることは、私にとって想像以上に難しいのだと改めて感じました。

さて、ブルゴーニュワインの世界で、ここ数年特に注目されている日本人醸造家がいます。それがフランス・ブルゴーニュでワイン造りを続ける中田晃司氏です。2000年に創業したドメーヌ・ルー・デュモンは、現在では日本でも非常によく知られた存在になりました。「天・地・人」というラベルを見たことがある方も多いと思います。以前は専門店で探すような存在だったブルゴーニュワインを、日本の一般的な酒販店や大型商業施設でも購入できるようにした功績は大きく、日本人が本場ブルゴーニュで成功した象徴的なワイナリーとして、テレビや雑誌でも紹介されてきました。
しかし近年、そのルー・デュモンの中でも特別な存在として扱われるワインがあります。それが「Domaine Koji et Jae Hwa(ドメーヌ・コージ・エ・ジェファ)」の名前でリリースされる白ラベルのシリーズです。そして、このシリーズの一部は、わずか数年前には1万円前後で購入できたものが、現在では数万円、場合によっては10万円近い価格で取引されるまでになっています。特に「Bourgogne Aligoté 1908」は、その象徴ともいえる存在です。
本当にワインそのものの品質だけで、ここまで価格が上昇したのでしょうか。それとも、生産本数の少なさ、世界的な評価、コレクター心理など、複数の要素が重なって現在の価格が作られているのでしょうか。
実際に飲んだ経験やオークション価格の推移を見ながら、この急激な価格上昇について考えてみたいと思います。

ルー・デュモンという生産者 日本人がブルゴーニュで築いた25年以上の歴史
まず、ルー・デュモンについて整理しておきたいと思います。一般的に知られているオレンジ色やベージュ色のラベルの「Lou Dumont」は、2000年創業のネゴシアンとしての作品です。ネゴシアンとは、自社畑だけでワインを造るのではなく、優れた栽培農家からブドウや果汁、場合によっては熟成途中のワインを購入し、自分たちのセラーで醸造や熟成を行う生産形態です。

ネゴシアンと聞くと「買ってきたものを販売しているだけ」と思われることもありますが、ルー・デュモンの場合は少し違います。中田氏自身がブルゴーニュ各地の生産者と長年関係を築き、厳選した素材を使い、自分の理想とする味わいへ仕上げています。そのため「天・地・人」のシリーズは、価格以上の品質を持つブルゴーニュとして多くの愛好家から支持されてきました。
また、ルー・デュモンには「レアセレクション」というシリーズもあります。これは通常のネゴシアンワインとは少し考え方が違い、世界中に残る熟成ボトルやバックヴィンテージの中から、中田氏自身が「これは紹介する価値がある」と感じたものを選んで販売しているものです。そのため、古いヴィンテージのブルゴーニュを比較的手頃な価格で楽しめることもあり、私自身も非常に魅力を感じています。

個人的には、この部分こそルー・デュモンの大きな魅力だと思っています。
単純に高級ワインを造るだけではなく、まだ知られていない素晴らしいブルゴーニュを日本へ届ける役割も果たしているからです。
Domaine Koji et Jae Hwa 中田晃司氏が本当に作りたかったワイン
一方で、近年世界的に注目されている白ラベルのDomaine Koji et Jae Hwaは、通常のルー・デュモンとは少し意味が違います。こちらは2012年頃から中田晃司氏夫妻が自ら畑を取得し、自分たちの土地からワインを造るという、よりドメーヌ的な活動から生まれたものです。

取得した畑には、プレモー・プリセ周辺、マルサネ、オート・コート・ド・ニュイ、そしてジュヴレ・シャンベルタン周辺などがあります。つまり、ブドウを買って理想のワインに仕上げるという段階から、土地を所有し、樹を育て、収穫し、醸造するという、より根源的なワイン造りへ進みました。
そう考えると、Domaine Koji et Jae Hwaは、中田氏が長年ネゴシアンとして培ってきた経験を、自分自身の土地で表現するための作品なのかもしれません。言い換えれば、ルー・デュモンというブランドの中でも、より「中田晃司という造り手自身の理想」が反映されたシリーズと言えるのではないでしょうか。

その象徴が、Bourgogne Aligoté 1908です。
一般的にアリゴテという品種は、ブルゴーニュではシャルドネほど高級品種として扱われません。酸が強く、日常的なワインやキールに使われることも多く、「安価な白ワイン」という印象を持つ人も少なくありません。あえてこの品種に価値を見出しました。それも普通のアリゴテではなく、1908年に植えられた100年以上の古樹を使った特別なキュヴェです。
古樹は収量が少なく、大量生産には向きません。しかし根が深く張ることで、土地の個性や複雑さを表現すると言われています。さらに生産量は数百本規模。一般的なブルゴーニュワインとは比較にならないほど少ない本数しか存在しません。
この「古樹」「少量生産」「造り手の物語」という組み合わせが、現在の市場では非常に強い価値として評価されているのだと思います。

なぜアリゴテ1908は数万円、そして10万円近くまで上昇したのか
オークション価格を見ると、この変化は非常に明確です。2018年前後には1万円台から2万円台程度で取引されていたアリゴテ1908が、現在では平均7万円台、中央値でも7万7,000円台という価格になっています。ヴィンテージによっては、以前の価格から10倍以上、場合によっては15倍近い上昇です。
もちろん、これには複数の理由があります。
一つ目は、圧倒的な供給量の少なさです。数百本しか存在しないワインの場合、世界中の愛好家が興味を持った時点で供給不足になります。特にブルゴーニュの有名生産者の場合、リリース直後にレストランで提供されたり、ワイン関係者が試飲したり、コレクターが保管したりすることで、市場に残る本数はさらに減っていきます。
二つ目は、海外市場での評価上昇です。2025年前後には海外のワイン専門家による評価記事や、世界的なワインメディアでDomaine Koji et Jae Hwaが紹介されました。それまで「日本人が造る珍しいブルゴーニュ」という認識だったものが、「これから評価される可能性がある新しいブルゴーニュ生産者」という見方へ変わったことが、価格上昇につながった可能性があります。

三つ目は、現在のブルゴーニュ市場そのものの変化です。DRCやルロワ、コント・ラフォンなど、昔からのトップ生産者は価格が上がりすぎ、多くの愛好家にとって簡単には手が届かない存在になりました。そのため世界中の富裕層やコレクターは、「次のスターになるかもしれない生産者」を探しています。
Domaine Koji et Jae Hwaも、まさにその流れの中で注目された存在なのかもしれません。
実際に飲んで感じたDomaine Koji et Jae Hwaの魅力 確かに偉大なワイン、しかし価格とは別に考える必要がある
ここからは、実際に飲んだ経験をもとに考えてみたいと思います。私は以前、Domaine Koji et Jae Hwaのワインを複数所有していました。アリゴテ1908、ジュヴレ・シャンベルタン、ブルゴーニュ・ピノ・ノワールなどを含め、合計で8本ほど保有していました。その中で実際に開けたのが、2019年ヴィンテージのピノ・ノワールです。
実際に飲むと、とても美味しいワインでした。ACブルゴーニュというカテゴリーで考えるなら、明らかに規格外の完成度を持っていると思います。

まず感じたのは、非常に綺麗な冷涼感です。過熟した黒い果実ではなく、赤いベリー、ラズベリー、チェリーのような繊細な果実感があります。そしてブルゴーニュらしい酸とミネラルが残り、飲み進めても重たくならない透明感があります。少しミントやハーブのような爽やかなニュアンスもあり、近年評価される「冷涼系ブルゴーニュ」の方向性をしっかり持っています。

樽使いも非常に上手でした。近年の一部ブルゴーニュでは、新樽のバニラ香や甘い樽香が前面に出ることがあります。しかしこのワインでは、樽はあくまで果実の厚みを補強する役割に留まっています。個人的には、冷えたベリーケーキのような印象がありました。新鮮な果実、生クリームのような柔らかな質感、そしてブルゴーニュらしい上品な酸が一体になっています。方向性としては、ヴォーヌ・ロマネの名門アンヌ・グロの華やかな赤系果実や、ショレイ・レ・ボーヌの名手トロ・ボーに感じる柔らかさとエレガンスを思わせる部分があります。現代のブルゴーニュ愛好家が求める美しい要素を、非常に高いレベルでまとめたワインだと感じました。
しかし、このワインに3万円、4万円、さらに10万円近い価格を払う価値があるかは別です。
これはDomaine Koji et Jae Hwaを否定しているわけではありません。8,000円や1万円で購入できるなら、間違いなく非常に優れたブルゴーニュです。しかし、3万円、4万円という価格帯になると比較対象が変わってきます。そして10万円になると、もはや別の世界のワインと競争することになります。

10万円のブルゴーニュで何を求めるのか グラン・クリュとの比較
ワインの価格というものは非常に不思議です。1万円のワインと3万円のワインを比べても、単純に3倍美味しいわけではありません。
10万円という価格帯に入ると、購入者が求めるもの自体が変わってきます。例えば10万円あれば、優れたプルミエ・クリュだけではなく、グラン・クリュも選択肢に入ります。赤ならエシェゾーやクロ・ド・ヴージョ、白ならコルトン・シャルルマーニュや、シャサーニュ・モンラッシェ、ピュリニー・モンラッシェのトップクラスのワインが見えてきます。
白ワインで考えれば、ルイ・ジャドのモンラッシェもその一つです。ルイ・ジャドという名前だけを見ると、スーパーや百貨店で販売されている身近なブルゴーニュメーカーという印象を持つ方もいるかもしれません。ところが自社畑から造られる特級畑モンラッシェのワインとなれば、まったく別の世界です。また、ドメーヌ・バロン・テナールやギ・アミオ・エ・フィスのように、DRCやコント・ラフォン、ルフレーヴ、ラモネほど広く知られてはいないものの、モンラッシェ周辺で素晴らしいワインを造る生産者も存在します。こうしたワインには、何世代にもわたって評価されてきた土地、世界中の愛好家が知る畑、そしてグラン・クリュという揺るぎない価値があります。
一方で、Domaine Koji et Jae Hwaが現在評価されている背景には、希少性、造り手の物語、そして将来性があります。もちろん、中田氏が取得した畑には大きな価値があり、今後さらに評価される可能性もあります。しかし現時点では、数百年にわたって価値を認められてきたグラン・クリュとは、まだ別の段階にあるのではないでしょうか。そのため、現在の10万円近い価格には「今の味わい」だけではなく、「将来的にさらに評価されるかもしれない」という期待値も大きく含まれているように感じます。

シャルル・ラショーのアリゴテから考える、現代ブルゴーニュの価値基準
同じような現象は、近年大きく高騰したシャルル・ラショーのアリゴテにも見られます。私も実際に飲んだことがありますが、アリゴテという品種から想像する一般的な印象とは大きく異なる、驚くべきワインでした。香りはまるで香水のようで、白い花や野薔薇、春のローズガーデンに迷い込んだような繊細さがあります。単純な果実味ではなく、花や香りそのものを飲んでいるような感覚があり、「アリゴテでもここまで表現できるのか」という驚きは確かにありました。
しかし、それでも10万円を超える価格になると、私は少し慎重になります。もちろん、シャルル・ラショーの価格も味わいだけで決まっているわけではありません。アンリ・ジャイエ以降のブルゴーニュの流れ、若き天才生産者という物語、世界的な評価、極端な少量生産など、さまざまな要素が重なっています。それでも飲み手として考えるなら、「10万円を払って得られる感動とは何なのか」という視点も必要です。
世界には素晴らしいワインが数多くあり、10万円という予算があれば、歴史あるグラン・クリュや名門生産者の特級畑も購入できます。だからこそ、現在のプレミアムブルゴーニュ市場では、「味わいの価値」と「所有する価値」を分けて考える必要があるのだと思います。
ワインには二つの価格がある 飲むための価値と、所有するための価値
私はワインの価格には、大きく二つの価値があると思っています。一つは、純粋に飲んで楽しむための価値です。飲んだときにどれほど感動するのか、料理との相性はどうなのか、何年も熟成させる楽しみがあるのかといった価値です。もう一つは、所有すること自体の価値です。
世界に数百本しかないワインの場合、必ずしも味わいだけで価格が決まるわけではありません。「今しか買えない」「将来はさらに手に入りにくくなるかもしれない」という心理が働きます。世界には予算をほとんど気にせずワインを購入するコレクターも存在するため、そのような人が数十人、数百人いるだけで、少量生産のワインは簡単に市場から姿を消します。さらにブルゴーニュでは、飲み頃を待って長期間保管する人も多く、実際に市場へ出てくる本数は一層少なくなります。
そう考えると、現在のDomaine Koji et Jae Hwaの価格上昇には、味わいの評価だけでなく、こうした希少ワイン市場特有の構造も大きく影響しているのではないでしょうか。

ルー・デュモンへの評価と、現在の価格への違和感は両立する
私はルー・デュモンを非常に高く評価しています。
長年飲んできたからこそ、現在の価格について冷静に見ています。天・地・人シリーズやレアセレクション、バックヴィンテージなど、ワインには大きな魅力があります。特に古酒を選ぶ確かな目と、価格以上の品質を提供し続けてきた姿勢は、ブルゴーニュ好きとして非常に尊敬しています。
一方で、現在のDomaine Koji et Jae Hwaの一部に付けられた価格は、品質だけではなく、希少性や将来への期待によって大きく膨らんでいる可能性があります。これは20年以上かけて築き上げてきた評価が、ついに世界市場で認められた証拠でもあります。
ただし、「素晴らしいワイン」と「その価格を払うべきワイン」は、必ずしも同じではありません。現在のDomaine Koji et Jae Hwaは、まさにその境界線にあるワインなのかもしれません。
将来さらに評価が高まり、「あの時代の初期ボトルを持っていた人は幸運だった」といわれる可能性もあります。一方、現在の価格にはかなりの期待が織り込まれているため、評価が落ち着けば、当時の市場は過熱していたと振り返られるかもしれません。だからこそ、このワインは非常に興味深い存在です。単純においしいかどうかだけではなく、ブルゴーニュの世界で価値がどのように生まれ、価格がどのように形成されていくのかを映し出す一本なのだと思います。