地方オーディオの常識と、私の思い込み
私は地方に暮らしています。家電量販店のオーディオ売り場は決して広くはなく、視聴機も限られています。その環境で長いあいだ私は、「ヘッドフォンといえばオーディオテクニカが最高音質」という前提で世界を見ていました。もちろん、国内メーカー各社は素晴らしい製品を数多く作っており、その評価は今も変わりません。ただ、選択肢に“触れられないこと”が、価値観を静かに固定化していたのだと思います。
その思い込みが覆るきっかけは、ある秋、大阪へ出かけたときに訪れたヨドバシカメラでした。フロアの半分を埋め尽くすオーディオの島、壁一面を占めるヘッドフォンの棚、そして視聴機の数。ソニー、パナソニック、デノン、オーディオテクニカは当然として、AKG、B&W、ベイヤーダイナミック、シュアなど、海外ブランドがフルラインナップで、しかも全て視聴できる。その密度と開放感に、まず圧倒されました。
私は片っ端からヘッドフォンを試していきました。最初は慣れ親しんだ国内勢、続いて海外の定番。何十本と聴き比べるうちに、ある一本で足が止まりました。ゼンハイザーHD650です。ボーカルの立ち上がりの滑らかさ、楽器同士がぶつからず空間に“置かれて”いく分離の良さ、低域の支えが上品で、全体がやわらかく膨らむのに曇らない。数分の視聴で、強く惹かれるものがありました。
HD650に至る“寄り道”:HD595・HD545・PX…そしてHD800
ゼンハイザーの棚を回りながら、HD595、HD545、PXシリーズも順に耳へ。HD595はHD650と音の方向性が近く、ややマイルドで聴き疲れしにくい印象が際立っていました。価格差を考えると完成度は高く、万人に勧めやすい一本に感じます。
そしてフラッグシップのHD800。実売16万円という価格に身構えつつ再生ボタンを押した瞬間、背筋が伸びました。高域の透過感、空気のすべり、定位の見通しの良さ。ボーカルが「目の前に立つ」という言い回しがありますが、HD800はまさにそれで、音像が空間に像として現れる感覚に近いものがあります。国内メーカーの十万円級も順に試しましたが、その日に一番強く心に刻まれたのはHD800でした。カードを取り出しかけた手を、HD650の実売価格で冷静に引き戻し、私は“現実的な最良解”としてHD650を選ぶことにしました。

HD650の音質:曇りのない“やわらかさ”
本題のHD650に戻ります。最初に感じたのは、低域のキレと厚みが両立していることでした。安価なヘッドフォンにありがちな、輪郭がもやっとした曇りがありません。低域は音楽の“床”として沈みこみつつ、必要なときに素早く立ち上がります。ミッドレンジは厚着をさせない自然体で、ボーカルが一歩前へ出る場面でも楽器隊と喧嘩しない。スピーカーで聴いているような立体感がヘッドフォンで再現される──その事実に、私は素直に驚きました。
ただ、新品おろしたてのHD650では、高域の一部に“キン”とした鋭さが顔を出すことがあり、ボーカルの子音が耳に当たる瞬間があります。ここはヘッドフォンアンプやソースとの相性にも左右されますが、使い込むほどに和らぎ、馴染んでいくのを実感できました。
1年ほど使っていくと、弦楽器のソロに関しては評価軸が少し変わります。バッハ《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》のように一本の楽器で空間を満たす曲では、音の芯はあるものの、“弦そのものの艶”がもう少し欲しいと感じることがありました。音場の柔らかい膨らみと、弦のキラリとした光沢はときにトレードオフになります。クラシック向けのスピーカーで慣れている方は、このポイントを念頭に、実機での視聴をおすすめします。

装着感とビルド:ドイツ的な実直さ
装着感は、スポンジがやや硬めで、成人男性の頭囲には心地よくフィットします。小柄な方や頭の小さい方は、位置決めを工夫しないとズレやすいかもしれません。側圧は過度ではないのですが、私の場合は1時間を超えると耳周りに痛みが出ることがあり、適宜の休憩で解決しています。
外観・造りはドイツ製らしく実直で、武骨。塗装のムラや歪みはなく、パーツの合わせ精度が高いことが手触りで伝わってきます。ケーブルは着脱式で、断線時の交換コストを抑えられるのは長期使用で大きな安心材料です。付属ケーブルはしなやかで3mと十分な長さがあり、アンプから少し離れたソファでも余裕で届きます。
リケーブルについては、HD650はサードパーティの選択肢が少なく、かつ2万円以上が相場という状況が続いています。個人的には、ケーブルへ投資を重ねるより、いずれHD800級へジャンプするための資金として蓄える選択も理にかなっていると考えます。

300Ωの壁:ヘッドフォンアンプは“必須装備”です
HD650のインピーダンスは300Ω。この数字は携帯プレーヤーやPCのイヤホン出力にとっては高い負荷で、直挿しでは音量が取りにくいだけでなく、音の鮮度が落ち、曇った印象になります。HD650の実力を知るには、アンプを挟むのが必須です。
現実的な組み合わせとして、私はFOSTEX HP-A3/HP-A7を推します。HP-A3は低価格帯でありながら、“とりあえず鳴らす”レベルを軽々越えてHD650の良さを引き出します。拡張性を求めるならHP-A7。デジタル入出力が充実し、DACとしても優秀で、PC・CDプレーヤー・ゲーム機など複数ソースを高音質で切り替えられます。発売当初より価格がこなれ、A3との差が小さい局面も見られるため、後悔の少ない選択だと考えます。
もちろん、LUXMAN P-200やaudio-technica AT-HA5000のような上位アンプは、さらさらとした上質感や余韻の伸びを与え、“高級なワイン”のような洗練をもたらします。ただ、ヘッドフォン本体との総額バランスを踏まえると、費用対効果で躊躇する方も多いはずです。まずは適正駆動を満たす堅実アンプから入るのが、HD650の“正しい入口”だと思います。
目安:HD650本体+堅実なDAC内蔵アンプで合計10万円前後。
これで“基準線”が明確になり、その先のアップグレード判断がぐっと楽になります。

HD650(開放)vs MDR-Z1000(密閉):設計思想の違いが音に出る
HD650とSONY MDR-Z1000を聴き比べると、どちらも高解像度で情報量が多いのに、音の描き方が根本的に異なることが分かります。
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MDR-Z1000:録音スタジオの“ガラス越しの素描”のように、直線的で硬質、定位がカチッと決まる。ボーカルとマイクの距離、ドラムセットのステージ上の位置、ベースのラインが、設計図の座標として見えるタイプです。打ち込みやエレクトロ系ではそのスピードとキレが活き、動画配信やボカロなどのシンセ層の重なりも整理して聴かせます。
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HD650:音場の穏やかな膨らみと、中域のしなやかな厚みが魅力です。低域は“ぼわっ”と広がるのではなく、広がりつつ締まるという難しいバランスで、音楽全体を心地よく支えます。クラシック、アコースティック、民族音楽のように楽器の響きが主役のジャンルでは、音楽的なまとまりが高い満足をもたらします。
両者は価格帯こそ近接しますが、用途と好みはくっきり分かれます。パソコンベースの打ち込みやモニター的チェックならZ1000、**生楽器と歌の“情”**を味わうならHD650。そう整理すると選択が明瞭になります。

購入後の“育て方”:エージング、パッド、メンテナンス
HD650は、稼働時間とともに表情がほどけるタイプです。最初は高域に硬さが残っても、50〜100時間の使用で角が取れ、音場のつながりが滑らかになります。イヤーパッドは消耗品で、潰れてくると音の距離感が変わり、低域の量感過多や高域減衰が起きます。純正パッドの交換は音の“リフレッシュ”に直結します。ケーブルの端子部は抜き挿しで緩みや接触不良が起きることがあるため、定期的な点検と清掃を習慣にすると安心です。
また、開放型は外音の侵入・音漏れが避けられません。深夜や家族の在宅時は配慮が必要です。代わりに、頭内定位が緩み、音が“外”へ広がる体験は開放型ならでは。環境さえ合えば、スピーカーリスニングに近い心地よさを得られます。
「基準」が書き換わる体験:HD650が教えてくれたこと
大阪の量販店でHD650を初めて耳にした日、私の“基準”は静かに書き換わりました。地方に限らず、私たちは入手性や露出の多さで、知らないうちに選択の範囲を狭めています。HD650は、そんな無意識の枠に風穴を開けた一本でした。やわらかさと透明感の両立、穏やかなのに退屈しない密度感、長く付き合える音作り。このヘッドフォンに出会ったことで、アンプやDAC、ソース管理の大切さにも目が向き、オーディオとの距離が一歩近づきました。
もちろん、完璧ではありません。ソロヴァイオリンの艶を追い込みたいときには物足りなさもある。300Ωというハードルも高い。それでもなお、総合点の高さと音楽的な幸福感で、HD650は私の“標準”であり続けています。
結語:HD650は“現実的な最良解”、そして良い伴走者です
ゼンハイザーHD650は、価格・音質・使い勝手の均衡が取れた、稀有な存在だと感じます。アンプを合わせた初期投資は決して小さくありませんが、その先に広がるのは、毎日耳に掛けたくなる穏やかな喜びです。モニター的な厳しさと、リスニング的な温度。その中間にきちんと立ち、“音楽がうまくいく”時間を増やしてくれる。そんな伴走者のような一本です。
地方に住み、限られた視聴環境で長く過ごした私にとって、HD650は“世界を広げたヘッドフォン”でした。もし、かつての私と同じように、選択肢の外側にある一本を探しているのなら、HD650は視聴の最有力候補になるはずです。やわらかさと透明感、その絶妙な針の上で鳴る音楽を、どうぞ静かに味わってみてください。


