先日あるツイートを読み、改めて考えさせられることがありました。現代社会に適合しにくい特性が「病気」や「ネガティブな欠点」として一面的に取り上げられてしまうことの多さです。
そのツイートでは聴覚過敏を例に挙げ、現代では人の話を聞かずに耳をふさいでしまう子どもが叱られる一方で、もし狩猟社会に生きていたならば、遠くの敵や獲物の存在を瞬時に察知できる優れた能力として重宝されたかもしれない、という指摘がありました。
学び直してる大学のスクーリングで発達障害の話。
先生「黙って目を閉じて耳を澄ませてください…何の音がいくつ聴こえましたか?目を開けてください。今、私が話している時、その音って聴こえますか?聴覚過敏の人は今皆さんが耳を澄ましてかろうじて聴き取れた音がこの話している音と同じように→
— めんどり (@mendori_sha) September 22, 2025
現代では「障害」として分類されるものが、過去においてはむしろ「特別な強み」として評価され得たということです。社会や環境との関係性によって「能力」と「障害」の境界は大きく変わるのだという視点を、強く実感しました。
ASDとADHD──環境によって変わる評価軸
このことは、自閉スペクトラム症(ASD)や注意欠如・多動症(ADHD)といった発達特性にも当てはまります。現代では学校や職場の基準に適合しにくいため「困りごと」とされがちですが、数百年前の社会環境に置き換えてみると、むしろ役に立つ局面が多かったのではないかと想像されます。
ASDの人が持つ強い集中力やこだわりは、単調で繰り返しの多い作業を正確に遂行する力となります。火起こしや道具づくり、狩猟のための罠の設置などには、正確さと継続性が求められます。また、自然環境の微細な変化やパターンを見抜く鋭さも、天候の変化を予測したり、動物の行動を察知したりするうえで非常に価値のある特性だったでしょう。
一方でADHDの人は、旺盛な好奇心や衝動性によって、未知の領域に踏み込んだり、新しい食料源を探したりする「探索者」として集団に貢献した可能性があります。危険に直面した際に瞬時に反応できる切り替えの速さや、エネルギーを維持して活動を続けられる力は、狩猟や警戒の場面で強い武器になったでしょう。現代の教室で「落ち着きがない」と指摘される行動は、かつては勇気あるリーダーや冒険者の資質として尊ばれていたかもしれません。
このように、発達特性は「社会のルール」との関係によって価値が大きく変わるのです。
現代の規律や効率性を重んじる環境では不利に映っても、別の社会や時代では重要な役割を担う力として認識され得たことを考えると、私たちの見方の偏りが浮き彫りになります。
私自身の経験──睡眠障害という特性
こうした視点は、私自身の体験とも重なります。私は中〜重度の睡眠障害を抱えており、深く眠り続けることができません。小さな物音や温度の変化、わずかな光で簡単に目が覚めてしまいます。現代の安全な生活環境においては、この特性は大きなデメリットとされ、「病気」と診断されます。
しかし、もし昔の社会に生きていたとしたらどうでしょうか。外敵や猛獣の脅威にさらされていた時代ならば、わずかな枯れ枝の音や草むらの気配に敏感に反応して目覚める力は、村や仲間を守るうえで大変重宝されたかもしれません。危険を察知してすぐに行動できる能力は、集団にとって不可欠なものだったはずです。
さらに、比較的近い時代である江戸時代を考えてみても、似たような役割は存在していました。夜間の「寝ずの番」や火消しの制度です。交代で眠らずに起きておき、火事が発生したときには枕木を叩いて皆を起こす仕組みがありました。眠りの浅い人や夜更かしに強い人は、そうした場面で大いに役立ったでしょう。現代では「障害」とされる特性が、時代によっては社会に不可欠な役割を担っていたのだと知ると、とても興味深く感じます。
薬の主作用と副作用に似た構造
この現象は、薬の世界にもよく似ています。第一世代の抗ヒスタミン薬は、本来の目的であるアレルギー抑制という主作用のほかに、強い眠気をもたらす副作用がありました。当時はそれがデメリットと考えられていましたが、やがて「眠気」を逆に利用し、睡眠導入剤(たとえばドリエル)の形で販売されるようになりました。

一方、現代主流の第二世代抗ヒスタミン薬(アレグラ=フェキソフェナジンなど)は、副作用を抑え、純粋にアレルギー症状だけに作用するよう改良されています。つまり、同じ薬であっても「副作用」とされたものが別の状況では「主作用」となり、逆に活用されるケースがあるのです。
この構造は、人間の特性と社会の関係と非常によく似ています。ある時代・状況では不利に見えたものが、別の状況では大きな強みになる。主作用と副作用の境界が入れ替わるように、障害と能力の評価も変わり得るのです。
疾病と多様性は表裏一体
結局のところ、疾病と多様性は表裏一体なのだと思います。
現代社会において「病気」とされる特性は、単に今の価値観や制度に適合していないというだけで、必ずしも人として劣っているわけではありません。少し時代が変われば、あるいは環境が変化すれば、それはむしろ必要不可欠な強みとして評価される可能性があるのです。
だからこそ、私たちは一面的なラベルにとらわれず、その裏に潜む可能性に目を向ける必要があります。耳をふさいでいる子どもを「話を聞かない」と叱るのではなく、「別の感覚が強く働いているのかもしれない」と捉える視点が必要です。あるいは、落ち着きのない子どもを「迷惑」と決めつけるのではなく、その行動がどのような環境なら役立つのかを考えてみる。そうした態度が、社会全体の多様性を支え、互いの違いを尊重する礎になるのではないでしょうか。
つまり大切なのは、時代や社会の枠組みに固定された見方を相対化し、多角的に物事を捉える姿勢です。私たち一人ひとりが、特性の裏側にある価値を想像できるようになるとき、障害と呼ばれるものは「個性」と「多様性」へと姿を変えていくのだと感じています。


