なぜモーツァルトのレクイエムにはラテン語とギリシャ語が混在しているのか?

コラム
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キリエ・エレイソンはラテン語ではなかった

ネットサーフィンをしていると、「キリエ・エレイソンはギリシャ語である」と書かれた記事を目にして驚きました。

というのも、レクイエム ニ短調 K.626の歌詞は全体としてラテン語で書かれており、途中に三回反復される「主よ、憐れみたまえ」という文言も、当然ラテン語だと思い込んでいたからです。

しかし調べてみると、Kyrie eleison は確かにギリシャ語で、「主よ(Kyrie)、憐れみたまえ(eleison)」という意味を持つ定型句でした。

なぜ Kyrie → Christe → Kyrie と交互に現れるのか

Kyrie eleison.
Christe eleison.
Kyrie eleison.

キリエ・エレイソンは、単に同じ言葉を繰り返しているわけではないようです。
Kyrie eleison(主よ、憐れみたまえ)Christe eleison(キリストよ、憐れみたまえ)では、実は呼びかけの相手が異なります。

Kyrie は「主なる神」への呼びかけであり、Christe は「(人として苦しみを経験した)キリスト」への直接的な嘆願です。

このため祈りは、神へ向かう → キリストへすがる → 再び神へ戻るという流れとなります。
それぞれ三回ずつ唱えられ、三位一体(父・子・聖霊)を象徴する構造になっています。

ドミネとキリエ同じ「主よ」

ラテン語で「主よ」と呼びかける場合は Domine(ドミネ)が使われます。
レクイエムの歌詞を見ていくと、Domine や Dominus の活用形が何度も登場しますが、これはラテン語特有の文法によるものです。

つまり意味としては Kyrie と Domine は同じ「主への呼びかけ」なのですが、言語が異なります。それにもかかわらず、キリエ・エレイソンだけがギリシャ語のまま残されている点が、この曲の特徴です。

なぜキリエだけギリシャ語なのか

調べてみると理由は初期キリスト教の歴史にあるようです。
新約聖書が成立した頃、神学や祈りの言語はギリシャ語、一方で、教会制度や典礼を整理する過程ではラテン語が用いられたそうです。

その移行期において、キリエ・エレイソンはすでに「祈りの言葉」として完成されていたため、あえてラテン語に翻訳する必要がなかったようです。

こうした背景を知ると、混在はむしろ必然だったと感じます。

「Rex tremendae」に突然現れる王の正体

もう一つ、以前から不思議に思っていたのが「Rex tremendae(恐るべき威厳の王よ)」です。

Rex はラテン語で王を意味しますが、なぜここで突然「王」が出てくるのか。
今までは漠然と「そういうものなのかな〜」と思っていました。

しかし調べてみると、この王は第三の存在ではなく、裁きを下すイエス・キリストを指していることが分かりました。神は創造主であり主であるだけでなく、終末においては裁きを行う王として現れるわけです。呼び名が変わっただけだと考えると、非常に自然に理解できます。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Das_J%C3%BCngste_Gericht_(Memling).jpg

「裁く者」と「執行する者」

このとき思い出したのが初期フランドル派の画家ハンス・メムリンクによる「最後の審判」の祭壇画です。上部には裁きを下すキリストが描かれ、その下で翼を持つ大天使ミカエルが魂を分けています。

現代的風に言えば、キリストが裁判官で、ミカエルが執行官のような役割です。
周囲には苦しむ者、祈る者が描かれ、裁きの場面が視覚的に示されています。

昔からキリスト教をしっかりと勉強している人にとっては当たり前かもしれませんが、 ちょっとした美術や音楽から入った、私のようなポップな感じでやっている人からすると、このようなラテン語や美術がどこか横で繋がっている部分があり驚かされます。

そうした背景に焦点を当てていくと、より深く理解することができ絵画や宗教音楽を聞く楽しみが増えますね。

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