米国の利下げでも進む円安
2025年10月、米連邦準備制度理事会(FRB)は政策金利を0.25%引き下げ、3.75〜4.00%のレンジとすることを決定しました。これで2会合連続の利下げとなります。
通常であれば、アメリカの利下げは日米金利差を縮め、円高方向への圧力として作用するはずです。ところが、結果は逆でした。発表翌日、為替市場では1ドル=154円台に到達。円はむしろ一段と売られ、円安が加速しました。
The Board of Governors of the Federal Reserve System voted unanimously to lower the interest rate paid on reserve balances to 3.90 percent, effective October 30, 2025.
出典元:https://www.federalreserve.gov/newsevents/pressreleases/monetary20251029a1.htm?utm_source=chatgpt.com
この動きは単なる「織り込み済み」では説明しきれません。
確かに市場はFRBの利下げを事前に予想していましたが、それを踏まえた上でも円が上昇しなかったという事実は象徴的です。
FRBのパウエル議長は「12月の追加利下げは必然ではない」と述べ、年内の金融緩和ペースを慎重化する姿勢を示しました。この発言が「想定よりタカ派(利下げに慎重)」と受け止められ、ドルが買い戻されたことも短期的には影響しました。
しかし、問題の本質はもっと深いところにあります。なぜアメリカが利下げしても円が買われないのか。それは、日本がすでに構造的に利上げできない国になっているという現実が、国内外の市場に完全に浸透しているからです。
「据え置き」決定が映す構造的限界
10月30日、日銀は金融政策決定会合で政策金利を0.5%に据え置きました。これで6会合連続の据え置きとなります。市場では一部に「0.75%への小幅利上げ」の期待もありましたが、結果は予想通りの現状維持でした。その直後、ドル円は上昇し、154円台に乗せました。
出典元:日銀、政策金利0.5%で据え置き決定 米関税影響の点検継続
では、なぜ日銀は利上げできないのでしょうか。主な理由は三つあります。
第一に、家計と消費の限界です。日本の家計の大半は、長年の低金利を前提に生活を組み立てています。住宅ローンの7割以上が変動金利型であり、もし金利が1%を超えれば返済負担は月数万円単位で増えます。これは家計を直撃し、可処分所得を減らし、消費活動を冷やします。GDPの6割を占める個人消費が落ち込めば、景気全体が急速に鈍化するのは避けられません。
第二に、企業の借入コストの急上昇です。企業もまた、ゼロ金利環境を前提に資金繰りを設計してきました。もし政策金利が1%を超えれば、企業の利払い負担は年間数兆円規模で増えます。特に中小企業にとっては致命的で、雇用・賃金・設備投資すべてに悪影響が及びます。結果的に「金利上昇→景気悪化→再び緩和へ」という負の循環に陥ることになります。
そして第三に、政府債務の金利リスクです。国債残高はすでに1,200兆円を突破しており、金利が1%上がるだけで年間の利払い負担は単純計算で12兆円増えます。この規模は防衛費や教育予算を上回ります。つまり、日銀が金利を上げた瞬間に政府の財政は立ち行かなくなるのです。しかも、その国債の半分近くを日銀自身が保有しています。金利が上がれば日銀の保有国債の評価損が膨らみ、自己資本が毀損します。「国債を持つ中央銀行が利上げできない」という構造的な矛盾がここにあります。
黒田前総裁の見通しと現実の乖離
こうした中、黒田東彦前日銀総裁はブルームバーグのインタビューで次のように述べました。
黒田氏は「現在の円・ドル相場は1ドル=153円程度だが、これは弱過ぎる」と述べた上で、「いずれ円・ドル相場は1ドル=120-130円程度に回復するだろう」と語った。
出典元:黒田前日銀総裁、1ドル=120-130円前後に向けた円高進行見込む
黒田氏は、米国の利下げと日銀の逆方向の動きによって日米金利差が縮小し、円が上昇に転じるとの見方を示しました。理論的には整合的で、金利差が縮小すれば通貨の相対価値が均衡方向に戻るというのは教科書通りの考え方です。しかし現実の日本経済を冷静に見れば、このシナリオはあまりにも楽観的です。
日本は急速な少子高齢化により労働人口が減少し、生産性も伸び悩んでいます。実質賃金は10年以上上がらず、民間投資も低迷。経済の自律的成長力が乏しい国で金利だけを引き上げれば、財政と民間の両方を圧迫する結果になります。
さらに社会保障費の膨張で財政支出が拡大し続ける中、利上げは「国家の首を絞める」ことになりかねません。こうした構造的な現実を踏まえると、黒田氏の描く120〜130円の円高シナリオは理論上は成立しても、実現可能性は低いと言わざるを得ません。
経済を守るか、通貨を守るか
日本は今、「通貨を守るか、経済を守るか」という二択を迫られています。利上げをすれば円は一時的に強くなるかもしれませんが、その代償は住宅ローンの急上昇、企業倒産の増加、そして財政悪化です。逆に緩和を続ければ経済は延命できるものの、円の信認はじわじわと低下していきます。どちらを選んでも、長期的な痛みを避けることはできません。
この構造の中で、日銀が積極的な利上げに踏み出す余地は極めて小さいのが現実です。金利を上げれば経済が壊れ、上げなければ通貨が壊れる――この二律背反の中で、日本は今も危うい均衡を保っています。現在の円安は一時的な為替の動きではなく、「構造的円安」というより深い現象です。通貨の価値が徐々に下がる一方で、国内は表面的な安定を保っている。その歪みが、いま154円という数字に凝縮されていると言えるでしょう。
FRBが利下げしても円が上がらなかった理由は明確です。
市場はすでに「日本は金利を上げられない」と理解しており、日銀が政策金利を0.75%に引き上げるだけでも高いハードルがあります。1%を超える利上げなど、構造的に不可能に近いです。金利を上げれば経済が崩れ、上げなければ通貨が弱る。そのはざまで日銀は、静かに「金融政策の限界」と向き合い続けています。


